清琉球程順則《指南廣義》(1) 清琉球程順則《指南廣義》(2)
清琉球程順則《指南廣義》(3) 清琉球程順則《指南廣義》(4)
清琉球程順則《指南廣義》(5) 清琉球程順則《指南廣義》(6)
清琉球程順則《指南廣義》(7) 清琉球程順則《指南廣義》(8)
[再按]時維乙未冬至,前兩日蒙北京劉義傑學友傳來《指南廣義》的清康熙刊刻本照相版(應原載於《琉球王國漢文文獻集成》,復旦大學出版社2012年出版)。茲據其對本網標點本略加比對,有錯漏或出人者,均以{ }號括注。網主識於2015年12月22日
[編者注]《指南廣義》作者為琉球國中山王府進貢正議大夫程順則(1663-1734)。他出生於琉球國久米村,是程泰祚之子,中山王國攝政程復之孫。據其頌德碑文﹐其全名作“程順則﹐名護親方 寵文”﹐程順則是唐名﹐寵文為字﹐名護是地名﹐親方乃封爵。另他的童名思武太,號念庵﹐書齋稱雪堂(主人)。
程順則是琉球國官員、學者。其先祖早於明洪武年代東渡琉球,程順則受其父影響,自幼對中華文化產生濃厚興趣,對琉球的儒學發揮了相當重要的推動作用。作為通事或貢使﹐程順則曾多次往返於琉球及清國之間﹐四入閩及三抵京師﹐並獲封舟掌舵者所遺針本及畫圖﹐遂悉為參考改正﹐編寫《指南廣義》﹐以作度世津梁。
《指南廣義》撰於康熙四十七年戊午(1708)﹐曾被使琉球者徐葆光的《中山傳信錄》等多番引用﹐對研究中琉往來﹑航海交通乃至天后等民俗頗有參考價值。其書約與《指南正法》同時﹐可與明﹑清諸種海道針經﹑更路簿彼此比較﹑互勘。
《指南廣義》的刊本不多﹑流傳不廣。琉球大學志嘉屋記念図書館有善本﹐個別網頁流傳其照像版﹐台灣大學圖書館另有善本及私人持有的影印本。今蒙台灣師範大學張素玢教授及其一眾弟子對台大版分別打字﹐並慨為整理贈送﹔乃以琉球大學圖書館藏版為底本﹐以台灣大學圖書館藏版作為參考﹐將其全文點校﹑公佈﹐望海內外大家不吝賜教。(26/8/2010)
程順則《指南廣義》影本(附部分相關地圖)
參見琉球•沖繩関係貴重資料デジタルアーカイフ:貴重書(琉球大学図書館仲原善忠文庫)
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/viewer?&cd=00020240
指南廣義/解説あり:
程順則(名護親方)が康煕47(1708)年に福州の琉球館で上梓したもので、那覇―福州間を往来する貢船に供する航海法・海図・天妃関連の情報が記述されている。航海法は康煕22(1683)年に来琉した冊封船羅針盤主掌舵工から伝授されたものと、久米村に伝わる針法を参照して作られたものである。本史料はもともと島袋源一郎氏が所蔵していたものが須藤利一氏に渡り、仲原氏が譲り受けたと見られる。
有關程順則生平著述另可參見《程順則関係史料》[嘉慶12年,1807] (ていじゅんそくかんけいしりょう): 沖繩縣立圖書館貴重資料デジタル(http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=61125)。
琉球大学図書館宮良殿內文庫資料集:
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/viewer?&cd=00010280
程順則由来/附:解説あり:
1件。11丁。26.2×19.0cm。楮紙。光緒14(1888)年11月筆写。
本史料は、屋富祖親方(鄭章觀)(やふそおやかた・ていしょうかん)が程順則(ていじゅんそく)の徳行を漢文体で記録 したものを、尚育王が喜納親雲上に命じて和文体で書き改めさせ、道光24(1844)年に完成し、それを松茂氏當宗(まつもしみやらとうそう)が光緒14(1888)年に筆写したものである。
陳佳榮“南溟網”:
http://www.world10k.com_新增文章_海交卷
(清)琉球程順則《指南廣義》點校版
[按]上述《程順則関係史料》及《程順則由来》漢文本,應屬同書的不同刊印、增訂版,其關係大略如下(31/08/2013) :
*《名護親方德行傳》:屋富祖親方(鄭章觀)完成於嘉慶十二年(丁卯,1807)。
*道光廿四年(甲辰,1844),喜納親雲為《名護親方德行傳》作序而刊行。
*光緒十四年(戊子,1888),松茂氏當宗重刻該傳,增補了康熙四十八、六十年年等資料,並更名為《程順則由來》。
另,有關程順則的生平大略,尚可參考下列書籍:
1、沖縄の偉人伝 1 集 沖縄県偉人研究会∥編 沖縄時事出版1973.8
2、沖縄史の五人 伊波 普猷∥原著 琉球新報社1974.5
3、名護親方程順則評伝 真栄田 義見∥著 沖縄印刷団地出版部1982.11
4、名護親方程順則資料集 1名護市史編さん室∥編 名護市教育委員会1991.3
5、久米村 歴史と人物 池宮 正治∥[ほか]編 ひるぎ社1993.3
6、名護親方程順則資料集, 第 1 卷 名護市教育委員会 名護市教育委員会文化課市史編さん係, 2005
東恩納寛惇(1882-1963)著《南島風土記: 沖繩・奄美大島地名辭典》(作於1941。Okinawa Kyōdo Bunka Kenkyūkai, 沖繩文化協會沖繩財團 1950重印版) 記及《指南廣義》附圖源自三十六姓移民の航海圖:
“釣魚嶼 :
列島中の南端に在る島で、その聳立せる形容に依って釣魚臺とも呼ばれる。指南廣義附圖には、特にその状を表示してある。この地圖は三十六姓移民の航海圖に依ったもので、航路の目標として掲出したものである。沖縄漁民の間には、夙くから「ユクン・クバシマ」の名で著聞しているが、ユクンは魚島、クバシマは蒲葵島の義と云はれる。指南広義に、「出那覇港、用申針放洋、用辛酉針一更半、見古米山並姑巴甚麻山」とある「姑巴甚麻(クバシマ)」はこれであろう。海図に「ホアピンスウ」(Hoapinsu)とあるのは、黄尾嶼の華音である。黒岩氏よりも前に明治18年中、美里間切詰山方筆者、大城永保が実地調査し、沖縄県庁に提出した報告書によると、ユク島と申所は、久米島より午末の間に有之、島長一里七八合程、横七八合程、久米島より距離百七八里、島程嶺立にして、松木樫木其他樹木繁茂、且つ山中より流水あり之、濱足場広く及、船碇宿所有之模様、且つ亦諸島の儀群り、…”(p.455)